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何かを生み出すこと

by Ryota Nagashima

曲を作る友人にこう伝えたことがある。

何かを表現する場を持っていて羨ましい。と。

なんと自分勝手なことを言ってしまったんだと今となっては後悔している。けれどその時はたしかに嫉妬していた。表現をする方法はいくらでもあるのに、自分にはそれが何もないと思っていた。

しばらくして旅をすることになり、

言葉を使って表現するようになった。

それまで溜めていたものが一気に吐き出されたのか、文字を打ち込む手は止まらなかった。

言葉があったのだ。こんなに近くにあったのにそれまでは気づいていなかった。

それからというもの、

何かを創る人たち、いわゆる芸術家に惹かれるようになった。

絵でも、写真でも、陶器でも何でも。

彼らは詩人だと思う。

ただし、言葉を違った形で表したり、

言葉では届かない部分を表現できる人たちのように感じた。

たとえ自己満足だと批判されようと、

分からないと言われようと、

まったく動じずにそこにある作品たち。

僕にはそう感じられた。

そしてまた密かに嫉妬していた。

何かを生み出していくこと、

その繰り返しが社会との接点を作るのだと本気で思っている。それなのに社会は分業化の歩みを止めようとしない。効率性や合理性を求めているのだから仕方がないのは分かってる。

それでも、作品を見たときに心が動かされるのは作り手が時間をかけてその作品と向き合ったという熱量が感じられるからであろう。

眺めて、イメージして、触って、壊して。

そこには効率性や合理性では測れない

「何か」がある。

多くの作品を見て、僕も作り手側に立ちたいと思った。立たなきゃいけないと思った。

そんな嫉妬まみれの僕だったけど、

やっと自分も何かを生み出すことができるようになった。

最近、畑に立つ機会が増えてきた。

野菜と向き合っていて、気付いたことがある。

それは、

農家もまた、詩人であり、芸術家であるということ。

哲学があり、それらを野菜を通じて表現している彼らはまさしくそうであったのだ。

私たちの祖先の多くは農業を営んでいたと考えると、今の時代以上に芸術家といえる人たちは多かったのではないか。

もちろん当時の人たちは生きるための仕事だったろうし、宮沢賢治が芸術という概念を農業に持ち込んだ時にはまるで理解されなかったことから、そういった自覚はなかったのだろう。

けれど、とにかく創っていた。

だから僕は、何かを創りたい、生み出したいと思うのは祖先からの流れを受けて生まれる当然の欲求なんだろうと思った。

こうして今に至る。

これから一年を通して、種植えから収穫まで、

作品を完成させる過程に身を置くことができる。それがどれだけ素晴らしいことか、望んでいたことか。

僕は自分に合った方法で、

芸術家としての自分に出会うことになる。

創るをする全ての人たち全てを尊敬します。

卒業制作の時期にたくさんの本気の作品に感化され、言語化してみようと思いました。

最後に多摩美術大学の卒業制作の作品を何枚か貼っておきます。芸術家は詩人だと改めて思ったのは、彼らの作品に対する説明文を読んだからでした。

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