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ボランティアとは「学び」の場だ。

by Ryota Nagashima

「ボランティア」を行なってきた中で、

ボランティアにおける難しさみたいなものを感じる機会を多く持つことができた。 

それらを言語化して、その上で僕が現在の活動を行なっている意味を書いてみようと思う。

ボランティアにおける難しさとは、

基準となる対価がないという事。

「労働の対価=お金」

という価値基準が強い人ほど当てはまる。

人ってどうしても他者との比較をするもので、

毎日過ごす相手が自分よりも働いていないと不満が溜まってくるものだ。

ましてや自主性を持って参加してくるのだから

それぞれの思いは強かったりする。

そんな時に怠けている人を見るとどうしても許せないという気持ちになるのはとても分かる。

例えば会社等で働いている場合、お金がその人の労働を評価するため、周りが自分より働いていないと感じても、周り以上に給料が高ければ不満は生まれづらい。

言ってみれば、貰ったお金の分だけ働けばいいということになる。

ボランティアは良くも悪くも多様性がある。

会社には入社試験というものがあり、選考が行われる。そこで会社の理念にあった人や優秀な人が雇われる。ふるい落としにかけられた後に残る人たちが晴れてその会社で働けるわけだ。

一方でボランティアは基本、どんな人でも受け入れる。受け入れ側もその場で会ってみないとボランティアがどんな人なのかが分からない。参加した理由も個々でバラバラなので自主的に参加したものの意欲の差は生じてしまう。そして冒頭で述べたように労働における対価が明確化していないため、不満が生まれるというわけだ。

これは国際ボランティアにおいて特に深刻な問題へと繋がる。

周りとの関係性や空気を読む事を意識する東洋圏の人々と、個であり好き嫌いがはっきりしている西洋圏の人々(もちろん東西ではっきりと分けられるものではなく、個性や年齢によっても変わってくる)において考えの違いから衝突が生じることは珍しくない。

結果、それぞれの活動に対するゴールが見えなくなり、目の前の相手といがみ合って終わるというケースになりかねない。

まとめると、

労働に対する評価が曖昧なため、

それぞれの意識の差に対する不満が生まれやすいということだ。

それに対して僕はこのようにしてそれらを乗り越えている。

そもそも、労働の対価はお金が全てなのか。

僕はそうではないと思っている。

労働を給与に対する働きと定義した場合、

「ボランティア」と「労働」は完全に分けて考えるべきである。

ボランティアは他者が決めた給与という評価に対する働きではなく、

自分自身が何をするかというもので、

向けられる矢印が全く逆なのだ。

ここをはっきりと理解する必要がある。

そして僕が活動を行なっている理由は、

圧倒的な現場経験を繰り返すことができるからだ。ここでの矢印は自分から自分自身に向けられるもので、周りと自分の関係性は持ち込まない。様々な活動を行えば行うほど、自分の中での経験値は積まれていき、自分自身の価値も高まっていく。どのような仕事が自分に向いているのかも見えてくる。

このように考えた時に、無償で行うことができるボランティアというのはむしろコスパ最強の「学び」の場であるとさえ僕は思っている。

人生100年時代を迎え、必然的に自分自身のアップデートが必要になっていく世の中で、

「ボランティア」が「学び直し」としての場として新たな価値を生み出すのかもしれない。

今回は「社会貢献」というワードをあえて出さなかったのだが、あくまで「学び」としてボランティアに付加価値として社会貢献に繋がるといった形でも充分だと思っていて。

僕のように矢印を自分に向けて、その上で社会貢献の矢印に合わせていくほうが結果的に活動は続くはずだ。

対価はお金というマインドをもう少し柔らかくすることで難しさを克服して、新たな自分の価値を見出すことができるということ。

ずっと抱えていたモヤモヤを言語化できたことが最近の学びの一つでした。

ただし、参加者の多くは比較をして不満を抱えています。何度も言っているように、コミット力が高い人ほど周りにも要求してしまう。

ここで重要になってくるのが活動におけるリーダーの役割です。個人的なリーダー論も言語化できたので、それはまた次回にまとめます。

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